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鳴く虫よもやま

鳴く虫なんでも雑記です!!

青紫蘇(あおじそ)

今年、ビニールハウスのなかでのカンタンの飼育はかなりの成果を見ました。数的にはほぼ満足できる ものでした。問題は羽化する時期が早すぎて9月にはもう何匹も残っていませんでした。卵を冷蔵庫に 入れて羽化を遅らせようと頑張ったのですが十分には成功しませんでした。来年の成功を目指して、 今も冷蔵庫に産卵痕のあるメハジキソウの茎を保存しています。来年は9月にも沢山鳴いてほしいものです。 メハジキソウは7月、8月にはよく茂り花も咲いて食草としては都合がいいのですが9月には枯れ始めてしまい、 この時期のカンタンの飼育には適当ではありません。これに変えて青紫蘇(あおじそ)は使えないかと 思い、菜園に生えていた苗を掘り起こしプランターに植え込みビニールハウスの中に入れてみました。 青紫蘇は9月に入っても青々としており茎の形状もメハジキソウによく似ています。結果的にはメハジキソウと 比較しカンタンが移ってくるのが少ないように見えましたが虫影はありましたし産卵痕は少なめでしたが 付いていました。来年は食草としてもっと沢山使って見ようと思っています。青紫蘇の葉は比較的大きい ので虫影を見つけやすいというメリットもあると思います。少しですが茎に産卵痕のある紫蘇の茎もメハジキソウと いっしょに保存しています。桐木が累年飼育用の食草として使いづらいことが解った今となっては紫蘇を使った 飼育を試すしかありません。(平成30年12月)

カンタンの天敵は蜘蛛?

この秋は例年より温かい日が多く、ビニールハウスの中に蜘蛛が沢山いることに気が付きました。ハウスの外 に植え込んだ桐木の植え込みにも蜘蛛がいてカンタンを捕食するところもました。ここ遠州でカンタンが 少ないわけの一つに蜘蛛に食べられてしまうことが挙げられると思います。ところがこの蜘蛛を退治するのが なかなか大変です。ハウスの中を一度スミチオンで消毒してみましたがこの薬は蜘蛛の退治にはあまり 効き目がありません。ネットなどで調べてみても蜘蛛を退治する農薬はなかなか見つかりません。 一般的に野菜作りなどにとって蜘蛛はどちらかというと野菜の害虫などを捕食する益虫と見なされている ようです。住宅の周辺に巣をつくる蜘蛛を退治する散布薬は沢山売られていますがこれでは広いハウスの中や 外の桐木の植え込みの消毒にはコスト的に使い辛いです。春になる前にもう一度蜘蛛退治の消毒しておきたいと 思ってはいますが、今は冬野菜などを植え込んでしまい消毒のタイミング選びも難しくなっています。

もう一度野外の草むらに目を向けると、私のビニールハウスのある畑の周辺は葛の茂みが一面に広がっています。 かってカンタンを捕りに行ったことがある本栖湖の周辺にも葛が生い茂りその中でカンタンが鳴いておりました。 確かに高度の差はありますが葛の茂り具合はよく似ています。ですからもう少しカンタンが育ってもよさそうに 思うのですが、ここではほとんどカンタンの鳴き声は聞かれません。カンタンが全くいないわけではありませんが 分布が非常に薄いのです。近くに小薮川という小さい川があり、その堤防の土手に葛やヨモギなどの雑草が 生い茂っておりそこではところどころでカンタンの声が聞かれます。堤防を100メートルくらい歩くと一匹くらいの 割合で鳴き声が聞かれます。ここでも蜘蛛がいなくなればカンタンがもっと増えるのではないかと思いますが、 いまのところ手の施しようがありません。

話が前後しますが一昨年畑の周辺の葛が生い茂る休耕畑の隅にメハジキソウと桐木を植え込みカンタンを孵化させた のですが、成長過程で虫影がどんどん減少し鳴き声はほんの僅かになってしまいました。昨年は手が回らいこと とよりよい飼育方法が見つからないためここでの飼育の試みは中断しました。来年はもう一度やってみようと 思っています。春、葛が生い茂る前に少しつるをカットしヨモギを植え込み、根元にもみ殻を撒いてみようと思って います。昨年桐木の根元に少しもみ殻を巻いたのですが、もみ殻の上では蜘蛛が歩きづらそうにしているのを目に しましたので、少しは効き目があるのではないかと期待しています。(平成30年12月)

カンタンの孵化と羽化

カンタンが卵を産み付けたメハジキソウの茎を11月ころ30cmほどにカットし、温室の脇に作った 金網の台の上に並べたもの(左の写真参照)と冷蔵庫に入れたもの(右の写真参照)と分けて管理 しています。露地に置いたものにはほぼ毎日水かけをしています。今年は露地に置いたメハジキソウ から5月18日頃最初の幼虫が孵化し、そのうちの1匹が7月1日に羽化しました。

冷蔵保存のもののうち半分ほどを5月19日に外に出し、毎日潅水を続けました。そのうちの1匹が6月19日 に孵りました。早速植え付けられたメハジキソウと桐木の根元に置き孵化した幼虫がそのまま食草に 這い上がれるようにしました。
冷蔵庫の中の残りの分を6月18日に取り出し露地に置き、先のものと同じように水かけをして孵化を 待ちました。しかし、こちらはとうとう1匹も孵化しませんでした。温度差が激し過ぎたのではないかと 思っていますが、今後の課題となりました。


カンタン飼育あれこれ

ここ遠州に引っ越して来てはや14年が過ぎようとしています。その間ズーッとカンタンの飼育を 続けています。昨年(平成28年)やっと飼育のツボをつかんだような気がしています。 兄がマスクメロン作りに使っていた温室が放置されていたので、それを利用して温室の 中にメハジキソウを植えてカンタンを飼い始めました。2年目ころかなりの数が成虫に なりました。しかし、その後はうまくいかない年の連続でした。夏温室の中は高温で乾燥し 過ぎるからだと考え、休耕畑を借りて何度もやりましたが、うまくいきませんでした。孵化はする のですが幼虫が成長して成虫になる頃、数が激減してしまうのです。そこで昨年は 休耕田の片隅に幅4メートル、長さ11メートルほどのビニールハウスをつくり、そこで飼育して みることにしました。ところがそのビニールハウスの製作は遅れに遅れ、カンタンの 羽化の方が先になってしまいました。昨年はビニールハウスでの飼育とは別にメハジキソウ を70センチほどの背丈になるようにカットすることを実行しました。カットすると枝が 生い茂り草叢状態になり、これがカンタンの脱皮と羽化に必要な湿度の高い環境を作り出して くれたのだと思っています。それまではメハジキソウを密植したことはありましたが、 カットしたことはありませんでしたし、ヨモギを使ったときにも草叢状態にはなりませんでした。 「カンタンを出来るだけ自然に近い形で飼育したい!!」とのポリシーに沿ってやってきた 積りでしたが、室内でケースの中での飼育と広い場所での飼育では湿度の差が大きく違います。 そのことにもっと早く気が付くべきでした。

昨年は温室の中でも同じようにメハジキソウをカットして茂みを多くするように しました。結果的には一昨年よりかなり多くのカンタンが成虫になりました。温室の中も ビニールハウスの中も今年はもっと湿度を安定的に保てるように工夫したいと思っています。

それとは別に昨年は桐の木を使ってカンタンを飼育することにチャレンジしました。桐の木の葉裏に カンタンがとまっているのを見たのはかれこれ20年以上も昔のことです。当時私は国分寺に住んでおり、 夜車で高尾山にウマオイを捕りに出かけました。高尾山の蛇滝のそばの駐車場に車を止めて、 沢を渡り左側に繋がる林道を300メートルほど進んだところに桐の木が一株あり その根本から数本の枝が真っすぐに伸び大きな葉を拡げ、その葉裏に何匹ものカンタン が止まっているのを見たのが最初でした。そのときは「桐の木にカンタンがとまるんだ!!」と 思ったのみで、ウマオイ捕りに専念していました。

2年ほど前メハジキソウを使ったカンタン飼育に行き詰まったころ、ふと高尾山でみた「桐の木に とまっていたカンタン」を思い出し、桐の木の栽培に精を出しました。ホームページに「種を蒔いて 苗が育つまでに3年かかる」と書いてありましたので「そんなに待てない!!」と思い桐の木を 探しあて、枝や根っこを採ってきて挿し木しました。挿し木の世話にはかなりの手間がかかる割に 成功率が低く、数本を残してほとんど失敗しまいました。並行的に種も蒔きましたので、 こちらの方が苗が多く育ちました。紆余曲折を経て昨年は20株ほどの桐の苗を育てること ができました。

大きく育ったものを使ってカンタンの飼育を試みました。プランターの中で育てた 桐の木の葉にカンタンがとまり、期待通りうまく育ってくれました。メハジキソウの植え込みの 中にも桐の苗を置いてみましたが、こちらにもカンタンが好んでとまる姿が確認できました。 桐の木を使ったカンタンの飼育のメリットは幼虫期も成虫になってからも虫影が見やすいことです。 メハジキソウをプランターに植え込み同じように飼育してみましたが、葉が細く分かれているため 虫影を見つけることが困難です。特に幼虫はなかなかみつかりません。カンタンの飼育では鳴き声を 聞くことはいちばんの楽しみですが、成長過程で虫影を観察することも結構な楽しみです。

カンタンが桐の木の葉に好んでとまる要因は葉や葉柄にある繊毛にあるのだ思っています。 桐の木は成長期には水揚げが盛んで、その水分を葉などを覆っている繊毛から蒸散させており、 その水分がカンタンにとって居心地の良い環境を与えているものと考えています。

昨年9月に桐の木の種を蒔きました。現在30〜50本ほどの小苗が育っています。12月にも 種を蒔きました。こちらは発芽するのですが間もなく枯れてしまいました。1月になってまた種を 蒔きました。適切な世話の仕方がわからず、暗中模索を続けています。少しでもいいから苗が 育ってくれてカンタン飼育の役に立ってくれることを願っています。(平成29年1月)

桐木を使ったカンタンの飼育

今年は努力の甲斐あって桐木はよく育ってくれました。早く成長してもらいたくて 肥料をやりすぎたせいで幹は徒長しすぎ、葉は大きくなりすぎ剪定作業に追われました。肥料を 控えることと幹の芯を摘み枝を沢山出させるコツのようなものを掴みつつあります。ざっくり 言えば盆栽の世話に似ているように思います。
自称「鑑賞カゴ」に使う小さな苗もほぼサイズを保てるようになりました。飼育カゴに使う苗も もう少しでうまくコントロールできるようになると思っています。昨年まではプランターの 中に植え込んだ桐木が大きすぎて網の中に納まりづらかったのですが、桐木を小さく育てることが できればうまく納まるように思います。
課題がないわけではありません。鑑賞カゴ用も飼育カゴ用の桐木も来年は一年分大きくなって しまいます。これを都合のいいサイズに保ち続ける方法をあみ出さなくてはいけません。
今、飼育カゴの網の部分を改良中です。桐木を使った飼育はもともと網をかけないでプランター を3個寄せ集めて桐木の茂みをつくり、そこでカンタンを育てる試みが出発点でした。昨年それを やってみました。結果はほぼ失敗でした。一番の難題はアマガエルが沢山集まって来てしまい 退治することができませんでした。やむなくその3個のプランターに網を掛けアマガエルの侵入を 防ぎました。しかし、3個のプランターに掛けた網は約1メートルほどになってしまい、移動など に大変不便なものなりました。そんな経緯をたどって今の試作品(このHPの「桐木の育て方」参照) にたどり着きました。今年は6個作り、1つのカゴにおよそ10〜15匹のカンタンの成虫と幼虫を 入れ家の周りに置いて様子を見ています。半分くらいのカゴで鳴いていますがオス・メス混合ですので 交尾すると鳴き方が悪くなってしまいます。それでも別の幼虫が羽化してくれたら、その虫が 鳴いてくれるものと期待しています。そうした環境を7月から9月まで維持できればいいと思って います。
最後の難関は桐木に産卵した卵が今年は1つも孵らなかったことです。桐木に産卵しているところ は昨年確認できたのですが、1匹も孵らなかったことはショックです。今年はこの問題をどうしても 乗り越えなくてはなりません。

中国における鳴く虫文化の概観

中国の歴史上、鳴く虫は蟋蟀(こおろぎ)の名前で中国最古の詩集『詩経(しきょう)』 にはじめて現れる。詩経は、3000年ほど前の詩を集め、今からおよそ2500年前 に編まれたという。ここに蟋蟀(こおろぎ)という言葉がはじめて表れる。この時代、 コオロギの鳴く声を「快織!(クワイジー)、快織!」(はやく機を織って寒さに そなえよ!)と聞き、促織と呼ぶようになったという。

蟋蟀が堂の中に入ってきた。もうすぐ歳も暮れるのだ。
今のうちに楽しまないと、月日はあっという間に過ぎてしまう。
(唐風『蟋蟀』)

七月は野におり
八月は宇(のき)に
九月は屋内に入ってきて
十月、蟋蟀は我が牀下で鳴いている。
ひん風『7月』)

などと日本のツズレサセコオロギの名の由来にも似たものや風流を思わせるものが ある。

後漢(25〜220)の時代の「古詩十九首」はそれ以前に編纂された詩で、 その第7首には「明月皎として夜光り促織(そくしょく)東の壁に鳴く、、、、、、」 とあり、蟋蟀はここでも促織(そくしょく)の名で表されている。

さらに唐の時代の大詩人杜甫(712〜770年)の「促織(こおろぎ)」という詩 の訳文を紹介する;

コオロギよ、おまえはたいそうちっぽけなむしなのに
物悲しい鳴き声は、なぜそんなに人の心をゆり動かすのか。
草の根方でせわしなく鳴いていたかと思えば
いつのまにか寝台の下にもぐり込み、心安くわたしに話しかける。
おまえの声を聞けば、長い間、旅の空にある者は涙を流さずにはおれないし
棄てられた妻は明け方が待ち遠しくてならないだろう。
楽器のせつないしらべも
人の心をかきたてること、天真のものにはおよばない。

とコオロギへの並々ならぬ思い入れ、その鳴き声が人の心に深く響いてくるさまを うたっている。ところが、中国では唐代に入って間もなくこおろぎはその鳴き声を 愛でるのみではなく、こおろぎに相撲をとらせる闘蟋(とうしつ)とよばれる文化 が生まれ、これが大ブレークしていくことになる。そのあたりの事情を唐代の 『開元天宝遺事』 王仁裕(880〜956)が説明している。「毎年秋になると、宮中 の妾妃らは皆、小さな金の籠に捕まえたこおろぎをいれ、枕辺に置いて夜、その声 に聞き入った。庶民も皆、これにならった。」 とある。彼女らは毎夜、虫籠を枕元 に置いて休んだ。一つの籠に複数のオスを入れると、たちまちすさまじい喧嘩に なってしまうことに気付くのにそう時間はかからなかった。やがて誰からともなく、 その闘争性を逆手にとって、コオロギに相撲を取らせるようになった。宮廷での こおろぎの飼育が始まって程なく、闘蟋あそびも行なわれるようになった。

『負暄雑録』(宋・顧文荐(こぶんせん)には闘蛩(とうきょう)(闘蟋のこと) は天宝年間に始まった。長安の金持ちは象牙を彫刻した籠にこおろぎを飼い、 一回の闘蟋のために万金の資を費やした、とある。八世紀半ばにあそびとして 始まったこの闘蟋は間のなく賭博にまで発展した。

唐代に宮廷で始まった闘蟋は、宋代(960〜1279年)には民間にも伝わり、 街には虫や虫の飼育道具を専門に商うものも現れ、「こおろぎ和尚」、 「こおろぎ宰相」 なども現れた。明代に入ると、闘蟋はますます盛んになり 「こおろぎ皇帝」 まで表れ、上流階級や金持ちばかりでなく、市井の老若男女 も熱中する大衆娯楽に発展した。清の時代に入っても闘蟋は衰えず、特に王朝末期 には闘蟋が異常に流行した。しかし、20世紀の半ば、唐代から連綿と 遊び継がれてきた闘蟋は満州事変、上海事変、国共内戦などの戦乱が続き、さらに 新中国が成立し、文化大革命に突入する時期にはすたれた。その後すっかりすたれ たかに見えた闘蟋は1980年代に社会が開放的になると共に復活した。

参考文献; 「闘蟋(とうしつ)」 瀬川千秋著

むかしの日本人の鳴く虫への思い

日本で最初にコオロギの名前が登場するのは万葉集である。万葉集の中にはつぎに 示した7首に蟋蟀(コオロギ)が現れる。万葉集は7世紀後半から8世紀後半頃にかけて 編まれ、成立は759年(天平宝字3年)以後と見られる。ここで注目したいのはコオロギを 全ての歌の中で「蟋蟀」と表現していることである。万葉集が万葉仮名(漢字)で 書かれているということもあり、中国の「詩経」のなかで詠まれている「蟋蟀」が そのまま輸入されたのではないかと推測する。

☆ 夕月夜心もしのに白露の置くこの庭に蟋蟀鳴くも(巻八)
☆ 蟋蟀のわが床の辺に鳴きつつもとな 起き居つつ君に恋ふるに寝ねかてなくに   (巻十)
☆ 庭草に村雨ふりて蟋蟀の鳴く声聞けば秋づきにけり(巻十)
☆ 秋風の寒く吹くなへわが宿の浅芽がもとに蟋蟀鳴くも(巻十)
☆ 影草の生ひたる宿の夕影に鳴く蟋蟀は聞けど飽かぬかも(巻十)
☆ 草深み蟋蟀多に鳴く屋前の萩見に君は何時か来まさむ(巻十)
☆ こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜を寝る験なし枕と我れは(巻十)

万葉の時代日本の都は平城京で、まだ周辺には草むら広がる風景がみられる都であった。 多くの貴族や下級官吏は平城京から少しはなれたところに自宅があり、馬などに乗り通勤 していたものと考えられる。自宅の周辺や通勤途上の道すがら彼らは草むらの中で鳴く虫 の声を聞いていたにちがいない。いわんや、地方に住む官吏や防人は草むらで湧き上がる ようにきこえるさまざまな虫の声を聞いていたものと推測される。この時代の人々は草むらの中 から聞こえる虫の声のみを聞き、鳴く虫を捕らえたり、それを庭に放して鳴き声を愛でるという 楽しみ方は流行っていなかった。従って草むらから聞こえてくる虫の音は全て「蟋蟀(コオロギ)」と みなしていたものと思われる。

時代が下がり平安時代になると都は平安京に移り貴族の人々は都の中の館を建てて住むよう になり、野べで鳴く虫の声を聞く機会は少なくなり、かわりに好みの虫を捕らえてきてカゴ に入れたり、自分たちの館の庭に放ってその鳴き声を楽しむようになった。こうした住環境の変化 により鳴く虫との距離はたいそう近くなり、その姿を目の当たりにする機会も増し、その個体 や鳴き声の違いが解るようになり、それまで蟋蟀と一くくりにして呼んでいた鳴く虫を松虫、 鈴虫など区別して呼ぶようになったものと思われる。また、この時代なぜか蟋蟀がこおろぎから キリギリスと読まれるようになった。平安時代に鳴く虫が詠まれた和歌および物語など を紹介する。

『古今和歌集』は平安時代の 延喜5年(905年)成立。そこで虫を詠んだ歌を紹介してみる。

☆ わがためにくる秋にしもあらなくに虫の音きけばまづぞ悲しき
☆ きりぎりすいたくな鳴きそ秋の夜のながき思ひは我ぞまされる
☆ 秋の夜のあくるも知らず鳴く虫はわがごと物やかなしかるらむ
☆ 秋萩も色づきぬればきりぎりすわが寝ぬごとや夜は悲しき
☆ 秋の夜は露こそことに寒からしくさむらごとに虫のわぶれば
☆ 君しのぶ草にやつるるふるさとは松虫の音ぞ悲しかりける
☆ 秋の野の道もまどひぬまつむしのこゑする方に宿やからまし
☆ 秋の野に人まつ虫の声すなり我かとゆきていざとぶらはん
☆ もみじばのちりてつれる我がやどにたれをまつむしここら鳴くらん

枕草子は、平安時代中期の女流作家、清少納言により書かれた随筆で、初稿は「古今和歌集」 より80年〜90年のちの長徳二年(996年)頃でその後も絶えず加筆され、 寛弘末年頃に完成されたといわれる。その中の「虫は」という段に;

虫は鈴虫。ひぐらし。蝶。松虫。きりぎりす。はたおり。われから。ひを虫。蛍。

と記されている。ここでも「こおろぎ」の名は見あたらずきりぎりすと著わされ、現在の 「こおろぎ」を表している。万葉集には鳴く虫の代名詞のように詠われていた「蟋蟀」 (こおろぎ)が平安時代になると全く無くなってしまうとはどうしたことだろうか、 不思議なことである。

源氏物語は、平安時代中期(1001年)に成立した日本の長編物語。紫式部がその作者 であるというのが通説である。当時の貴族が鳴く虫を愛でるさまがリアルに表現されていて 面白い。その「鈴虫」の巻に;

げにげにこゑごゑきこえたる中に、鈴虫のふりいでたるほど、はなやかにおかし。
光 「秋の虫の声いづれとなき中に、まつ虫のなんすぐれたるとて、中宮のはるけき野べを 分て、いとわざと尋ねとりつつはなたせたまへる。しるくなきつたふるこそすくなかれ。 名にはたがひて、いのちのほどはかなき虫にぞあるべき。心にまかせて、人きかぬおく山、 はるけき野の松原に声をしまぬも、いとへだて心ある虫になんありける。すず虫は こころやすくいまめいたるこそうらたけれ云々。こよひは鈴虫のえんにてあかしてんと おぼしたまふ。」、、、、、、

といっている。

この時代わが国は遣唐使、留学生、留学僧などが中国に渡り、中国文化の吸収に 余念がなかった。こうした人々が長安の街中で当時中国で盛んになっていたコオロギ相撲、 闘蟋(こおろぎ相撲)を見る機会もあったに違いなかったと思われるが、なぜか闘蟋 はわが国でははやらなかった。中国では国民的文化となった闘蟋が日本人の体質に 合わなかったとすると、このあたりに日本人と中国人との感性の違いのようなものがうかがえ て面白い。さらに和歌に詠まれた鳴く虫の紹介を続ける。といっても鳴く虫が和歌 に詠まれている割合はその他の花鳥風月とは比べものにならないほど少ないことも 事実である。

後撰和歌集は天暦9(955)年から天徳2(958)年正月までの間に撰した平安中期の和歌集です。 後撰和歌集にはつぎのような鳴く虫を詠いこんだ歌がみえる。

☆ まつむしの初声さそふ秋かぜは音羽山より吹きそめにけり
☆ 日ぐらしの声きくからにまつ虫の名にのみ人をおもふころかな
☆ 秋風の吹きくる宵はきりぎりす草の根ごとに声乱れけり
☆ 来むといひしほどや過ぎぬる秋の野に誰まつ虫ぞ声の悲しき
☆ 秋の野に来宿る人もおもほえず誰をまつ虫ここらなくらむ
☆ 秋風のやや吹きしけば野をさむみわびしき声に松虫ぞ鳴く
☆ をみなえし草むらごとにむれたつは誰まつ虫の声にまよふぞ
☆ をみなえし色にもあるかな松虫をもとに宿して誰を待つらむ

この時代の和歌に「まつむし」が詠みこまれたものがよく見受けられるが、まつむし そのものを詠んだものは少なく「まつ」とうい言葉かけた遊びの要素になっている。

拾遺和歌集は、古今・後撰に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で、いわゆる「三代集」 の最後にあたる。後撰和歌集よりおよそ50年後の寛弘三年(1006)頃の成立といわれる。 全二十巻、約1350首からなる。ここにはつぎのような鳴く虫を詠い込んだ歌がある。

☆ おぼつかないづこなるらむ虫の音を尋ねば草の露やみだれむ
  前栽に鈴虫を放ち侍りて
☆ いづこにも草の枕を鈴虫はここを旅ともおもはざらなむ
☆ 秋来ればはた織る虫のあるなへに唐錦にも見ゆる野べかな
☆ ちぎりけむ程や過ぎぬる秋の野に人まつ虫の声の絶えせぬ
☆ ちとせとぞ草むらごとにきこゆなるこや松虫の声にはあるらむ
☆ 秋の野に花てふ花を折りつればわびしら(欄)にこそ虫も鳴きけれ

後拾遺和歌集は勅撰和歌集で勅命は白河天皇、撰者は藤原通俊。承保二年(1075年) 奉勅、応徳3年(1086年)に完成。二十巻、総歌数1218首。虫を詠いこんだものはつぎの ようなものがある。

☆ いろいろの花のひもとく夕ぐれに千代まつ虫の声ぞきこゆる
☆ とやかへり我が手ならししはし鷹のくるときこゆる鈴虫の声
☆ 年経ぬる秋にもあかず鈴虫のふり行くままに声のまされば
☆ たづね来る人もあらなむとしを経て我がふるさとの鈴虫の声
  (長恨歌の絵に玄宗もとの所にかへりて虫ども鳴き
  草も枯れわたりて帝嘆き給へるかたある所をよめる)
☆ 故里は浅茅がはらとあれはてて夜すがら虫のねをのみぞ鳴く
☆ 浅茅生のあきの夕ぐれなく虫はわがごとしたにものやかなしき
☆ 鳴けや鳴け蓬がソマのきりぎりす過ぎゆく秋はげにぞかなしき

少し余談になるが「故里は浅茅がはらとあれはてて夜すがら虫のねをのみぞ鳴く」  という和歌に注目したい。唐の時代、紀元806年に白居易によって書かれた 長恨歌(ちょうごんか) を題材にした和歌である。この和歌では「玄宗皇帝が かつての居所に帰ってきてみれば、庭は荒れ果て、チガヤが生い茂り、虫の音 だけが聞こえる、、、」といった内容であるが、長恨歌の原文には虫の音は全く 表現されていないのである。元の長恨歌には書かれていないにも拘わらず、 断り書きまでつけて虫の声を詠み込んだり、絵にしたりする日本人と中国人の 感性の違いが垣間見えておもしろい。

千載和歌集は寿永二年(1183年) 後白河院の下命により、藤原俊成が着手し、 文治四年(1188年)4月22日に奏覧。二十巻で、歌数は1288首。そのほとんどが 和歌である。虫が詠まれているものはつぎのようなものがある。

☆ 虫の音は浅茅がもとにうづもれて秋は末葉の色にぞありける
☆ 秋の夜のあはれは誰もしるものを我のみとなくきりぎりすかな
  虫声非レ一といへる心をよみ侍りける
☆ さまざまのあさじが原の虫のねをあはれひとつに聞きぞなしける
☆ 夜をかさね声よわりゆくむしのねに秋のくれぬるほどをしるかな
☆ 秋深くなりにけらしなきりぎりすゆかのあたりに声きこゆなり
☆ さりともとおもふ心も虫のねもよわり果てぬる秋の暮かな
☆ 虫のねもまれになり行くあだし野にひとり秋なる月のかげかな

『新古今和歌集』は鎌倉時代初期、後鳥羽上皇の勅命によって編まれた勅撰集。 古今和歌集以後の8勅撰和歌集の最後の歌集で元久二年(1205年)に完成した。 八代歌集のうち最多の1979首を収録し、すべて和歌である。

☆ きりぎりす夜寒に秋のなるままによわるか声の遠ざかり行く
☆ 虫の音もながき夜あかぬ故郷になほおもひ添う秋風ぞふく
☆ あともなき庭の浅茅にむすぼほれ露のそこなるまつ虫のこゑ
☆ 秋ふけぬ鳴けやしも夜のきりぎりすやや影さむし蓬生の月
☆ きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかもねむ

これらの和歌によみこまれている「きりぎりす」はその和歌の表現から推し はかると現在われわれが呼ぶこおろぎと思われる。源氏物語に表されたスズムシ、 マツムシなどをめでる高貴なひとびとの振る舞いや鳴く虫についての細やかな 観察眼に比較して少し概念的に響く和歌が目に付くが、ここでも虫の声に心を 惹かれるいにしえの詠み人の心根は十分伝わってくる。

主な参考文献:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「虫と日本文化」 笠井昌昭著
「鳴く虫の博物誌」 松浦一郎著

源氏物語絵巻に見る鈴虫




鈴虫
光源氏は出家した女三の宮の住まいの前庭を秋の野原の 風情に作り替え、鈴虫を放った。
八月十五夜、女三の宮が仏前で経を誦し、若い尼君たちが 閼伽棚(あかだな)に花や水を供えたりしていると、光源氏が 訪れてともに経を誦し、語らいながら鈴虫の音に聞き入った。

光源氏が女三の宮と鈴虫の音を聞いていると、そこへ夕霧たち がやってきて管弦の遊びとなった。
さらに冷泉院から誘いがあり、院に場所を移し、夜を徹しての 詩歌管弦の宴となる。
参考文献;よみがえる源氏物語絵巻、NHK出版
[平成21年7月28日撮影]

広重の東都名所「道灌山虫聞き之図」


江戸期の道灌山は鳴く虫の声を鑑賞出来る名所となっていた。 子供づれの女性、鳴く虫の声を肴に酒宴を楽しむ人々の姿が 生き生きと描かれている。道灌山は眺望に優れ、また江戸時代 から虫聴きの名所として知られ、よく文人が訪れた。道灌山の虫聞きについて 「江戸名所花暦」には、「くさぐさの虫ありて、人まつ虫のなきいづれば、 ふりいでてなく鈴虫に、馬追い虫くつわ虫のかしましきあり。」と記されている。 場所は今の西日暮里駅西側の西日暮里4丁目あたりの高台の地域で 「ひぐらしのさと”日暮里”」と呼ばれていた。他にも麻布の広尾原や隅田川畔 の牛島や真崎、三河島の荒木田等が虫聞きの名所地であった。 [平成21年7月28日撮影]
参考文献; 歌川広重、東都名所「道灌山虫聞き之図」
HP「道灌山の虫聞き」

鈴木春信「虫籠を持つ母と子」




母とその子供がキリギリスとおぼしき虫の入っている虫かごをかざしている図である。 江戸の街には金魚売りとか風鈴売りとかいろいろな物売りがやってきた。鳴く虫売りも 結構な商売になっていたようである。この親子もそうした虫売りからもとめ、 キリギリスの鳴き声をたのしんでいるのであろう。 [平成23年7月27日撮影]
参考文献; 浮世絵大観、鈴木春信

虫売りを商いにした江戸っ子





「日本社会事彙」によれば、虫売りのはじめは神田に住んでいたおでん屋忠蔵で、 寛政年間(1789〜1801)のことという。最初は根岸の里でススムシを獲ってきて 売るようになった。虫売りが繁昌し虫獲りが間に合わない。ところが、うまい具合に スズムシの人工飼育に成功したものが現われた。青山下野守の家臣で桐山某という者で ある、忠蔵は桐山から虫を仕入れて売るようになった。また、忠蔵の協力で桐山は 邯鄲、松虫、くつわむしなどの養殖にも成功した。虫売りはさらに繁昌し、「虫講」 として株仲間をつくり江戸の虫売りを独占するほどになった。江戸後期の風俗を記した 『守貞慢稿』の挿絵によれば虫籠をいくるもつるした屋台が描かれている。

虫の商いは明治時代も盛んで大正、昭和前期まで続いたが戦局の悪化で次第にすたれ 戦災で問屋は全滅した。
参考文献; HP高橋千劔屋破著「虫の日本史」
「鳴く虫セレクション」東海大学出版会

記憶の中へ

わたしの最初の虫との出会いは母が捕ってきてくれたホタルである。 それは4、5歳の頃のことであったと思うが、夕闇が迫るころ野良仕事 を終えて家に戻ってきた母が何匹かのホタルが入った紙の袋をわたしにくれた。 紙袋の中で点滅しているいくつもの光にたいへん驚いたことを今でも思い出すこと ができる。わたしが虫好きなことを母が知っていて、わたしを喜ばせようと 捕ってきてくれたのか、それとも彼女自身もホタルが好きだったのかは分らず終い となってしまったが、、、、、

小学生のころには、わたしの生家のそばを流れる敷地川沿いにまだ大きな源氏ボタルが その光を川面に映しながら悠々と飛翔していく姿がみられた。夕ご飯もそこそこに長い 笹箒を担ぎ、ホタル草を少し入れたガラス瓶を首から吊るし、そそくさとホタル狩りに 出かけたものであった。川に架けられた小橋の上からホタルの入ったガラス瓶をかざすと、 中のホタルが光るのに誘われて川面を飛翔でいるホタルが光のシュプールを描いてくるりと 舞い降りてくるところをすばやく箒ではたき落とし、ガラス瓶の中に取り込む。 捕ってきたホタルは蚊帳の中に放したり、ビンごと蚊帳の上に転がして ホタルの光を眺め、楽しんだものであった。

ガチャガチャ(くつわむし)を沢山捕ってきて、かごの中で飼ったことも覚えてい る。餌としてキュウリやナスなどを与えて飼う。朝起きてみるガチャガ チャのおしっこがアミの外に飛び散り、畳を汚してしまい困ったことを今でも 覚えている。当時はガチャガチャとかしか思っていなかったが、その羽根が 細長かったように思われたので、今にして思えばタイワンクツワムシであったのか なとも思われる。むかしガチャガチャを捕りに行った小薮川の堤防に先日いって みたのだが、ガチャガチャの数は少なく、それがタイワンクツワであったのか、 確認することはできなかった。

子供の頃の夏休みの思い出はいろいろあるがラジオ体操、やかましいクマゼミ の声、敷地川での魚捕りが最も印象深く思い出す。いつも遅刻すれすれにラジオ 体操の会場に駆けつけ、出席カードに丸印を押してもらうことから一日が始まるの だがが、そのころ会場に降り注ぐようなクマゼミの合唱が始まる。午後には川で魚捕り。 よくもまァー毎日毎日代わり映えのない生活を飽きずにしていたものだったと当時を 偲ぶ。
夏休みも残り少なくなり、夕闇の迫る敷地川の川面に涼風が吹きわたると堤防の茅の 草むらのあちらこちらでマツムシがチンチロリン、チンチロリンとせわしなく鳴き はじめ、その声にリーン、リーンとスズムシの声が重なる。絶妙なハーモニーに 思わず身震いしたことをはっきりと覚えている。
今再び夕闇の迫る敷地川の堤防に立ち、昔と同じようにマツムシとスズムシの声を聞く と自分の歩んできた航跡がはるばると長いものだったように思えたり、またほんの一瞬 の出来事であったかのように思えて不思議な思いに駆られる。

高尾山のウマオイ:

今からもう10年ほど前になりますが、 国分寺市に住んでいたころよく高尾山にウマオイを捕り行きました。国分寺から車で一時間 ほどで行かれます。夕方7時少し前に家を出て8時ころから9時過ぎまで虫とりして10時には 帰宅します。プロ野球の阪神/巨人戦の実況などを聞きながら今夜の虫とりのことを頭に描き、 少しうきうきしながらハンドルを握り西浅川の交差点で国道20号線を右折して516号線に入り JR中央線と中央高速道路の左側を進み、清明園(かっては浅川ホームむつみ園)という施設の 手前を高尾山蛇滝へ通じるとても狭い道に入ります。曲がりくねった一本道ですから前方から 車が来たらお互いに逃げ場がなくなる危険がありますので車のヘッドライトをアップし、 クラクションを一発鳴らしてゆっくりと進みます。蛇滝の手前6,70メートルのところに 車4,5台がおける駐車場があり、そこに駐車し虫捕りの準備をはじめます。沢の水音に 交じってウマオイの鳴き声が聞こえると、虫捕りの支度にももどかしさを覚えます。

登山道から分かれてヘッドライトの灯かりだけを頼りにいよいよ林道に入ると杉木立の暗闇の 醸し出す独特の圧迫感が肩にのしかかってきます。夜の山中にたった一人いるという緊張感と 恐怖心が体の中に湧き上がってきて思わず身震いを覚えます。そんな思いもウマオイの鳴き声 をまじかに聞くと次第に虫捕りの面白さに心を奪われ、やがて虫捕り夢中になっていくのです。 グーグルマップをお借りして下に場所を紹介しました。




この林道は高尾山の中腹の北側斜面を東方向に向かい緩やかな上り勾配に山ひだに沿って曲がり くねりながら続いています。山腹を削り、谷側をコンクリート壁で土留めをし、やっと路面を 作り出したような道で、山側は2,3メートルの高さの崖のような急斜面になっていて広葉灌木 や山草に覆われており、ところどころに点し水が滴っていて谷側は杉の木が一面に林立してい ます。道路が山ひだを辿るように蛇行しているので進むにつれて昼間には木漏れ日が差し込む 明るいところと杉木立に覆われた日蔭のところとがかわるがわるに展開していきます。こうした 条件のため陽のあたるところではウマオイの成長が早くなり、日差しの少ないところでは遅れる ため、成虫がしきりに鳴いているのに一方ではまだ2,3齢の幼虫が見つかるほど成長にばらつき が生じています。

虫捕りに行く場合は前もってその現場に昼間入り、足元の安全と虫が捕れそうかどかをチェック します。そのため虫捕り道具一式を携えていきます。高尾山の別の登山道もチェックしましたが、 登山道が尾根伝いでウマオイがいなかったり、石ころ道で夜は危険すぎたりでなかなか適当な 場所が見つかりませんでした。

虫捕りにはトレッキングシュース、長ズボン、長そでシャツ、帽子、ヘッドライト、携帯電話、 虫カゴと捕りアミを用意します。ウマオイを捕るときはアミの部分が長い補虫アミを用意します。 捕虫アミそのものは市販のものですが柄の部分が伸縮し、最大2メートルほどに伸ばせるものです。 もう一つは手作りの追い込アミです。1メートルの柄を2本つなげるように工夫してあります。

ウマオイはクツワムシなどとは違って灌木の比較的高いところで鳴いています。鳴いているオス にソォーと近づき、虫の下側に捕りアミを近づけ、追い込みアミで虫を上から一気にたたき捕り アミの中に追い込み、素早くアミを平らな路面に伏せます。虫が逃げ出さないようにアミの奥の方に 誘導しながら、プラスチックのカップで捕獲し虫かごに取り込みます。メスを捕えるのはかなりの 忍耐がいります。先ずオスの鳴き声を頼りにオスを見つけ、それからオスのいる周りの葉のなかを ヘッドライトでじっと照らしながらメスを探し続けるのです。この林道を400メートルほど進み、 折り返して往路に取り逃がした虫に再度チャレンジするのです。頼りは虫の鳴き声のみです。一度 トライして取り逃がした虫はたいてい林道から離れたところか、高いこずえに移動しています。 このとき捕りアミの柄を2メートルに伸ばして頑張ります。それでも届かない場合が多いのですが、 深追いはしません。

高尾山はカンタンの声が聞かれる山として紹介されていますが、私にとってはウマオイ捕りの方が はるかに強烈な思い出となっています。
(平成21年)



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